・2 月、アンリ・ヴェルヌイユ(Henri Verneuil)監督、アンソニー・クイン(Anthony Quinn)主演の映画「25 時」(1967 年、イタリア)を鑑賞。権は、この映画を二回にわたり見に行っている。まず2 月15 日に張志媛と、18 日には崔景子と出かけている。
・2 月、《おさげ》、《鉉玉》を制作。
《おさげ》(No.67,68)は朴英姫を、《鉉玉》(No.69)はソラボル芸術大学絵画科の金鉉玉をそれぞれモデルとした胸像である。金鉉玉は、1967 年秋に劉俊相の紹介により権と知り合い、1970 年の末まで権のアトリエに通う。
・4 月、《恵正》を制作。
3 月9 日、劉俊相の紹介により、ソウル演劇学校(現、ソウル芸術大学)で演劇を学んでいる羅恵正と知り合う。翌月には羅恵正をモデルとし、《恵正》(No.70)を完成させる。
・7 月11 日~ 20 日、東京・日本橋画廊にて「権鎮圭彫刻展(テラコッタ)」開催。
この時の個展はいずれもテラコッタの作品30 点で構成され、出品作は以下の通りである。
《江原の女》、《比丘僧》、《再会》(No.50)、《春葉尼》(No.51)、《浴女》、《志媛》(No.53)、《愛子》(No.55)、《午下り》(No.64)、《権助》(No.58)、《宣子》(No.60)、《首》(No.20)、《鳳淑》、《浴後》、《ポーズ》(No.62)、《団地の女》、《あさ》、《ひる》、《嫌だ》(No.65)、《そのあと》、《あくるあさ》、《おさげ》(No.67)、《恵正》(No.70)、《英姫》(No.23)、《馬》、《明子》(No.38)、《清湖洞の女》、《西江の女》、《蓮実の首》、《侍女》(No.71)、《ダンス》
この展示はおおむね高い評価を受け、『東京新聞』(7 月19 日夕刊)や『読売新聞』(7 月18 日)などに紹介される。 『東京新聞』は「近代的な具象彫刻の面白さ、権鎮圭彫刻展」と題して次のように紹介する。
「一九二二年生まれで、戦後、武蔵野美大で彫刻を学び、在日二十年、ここ十年間はソウルに帰国している韓国の作家である。小品の全身裸婦像群と胸像二十点の合計三十点を見せている。全身像はこの作家の勉強の幅や過程を示すもので、ブールデル、マイヨール、エジプト、タナグラ彫刻などを吸収しようとしているのが、わかる。これらは個性的な集中力に弱く、ポーズの表情に頼っている弱点が見えるが、胸像の作品群では独自なものを表現しはじめていて、面白い。
胸から首にかけての形を三角錐(すい)の量塊につかんでいるのはイタリア現代彫刻のジャコモ・マンズーを連想させはするが、物体の安定感や大きさはよくとらえられている。そしてそれに続く顔はムダな肉付けを落とし、細面となっている。表面的なキメ細かさをねらわず、大きく、重く安定する彫刻性がある。そこに、日本人の感性とちがった風土性を感じさせられるが、それでいて要所には鋭さが走っており、近代的な具象彫刻の面白さをもっているのである。
頭髪のないもの(「春葉尼」など)やネッカチーフで髪をくるんだ作品(「志媛」「愛子」など)は、作品としてはまとまりはいいけれど、欲をいえば「侍女」のように頭髪をまともに扱い、首と胸の三角錐とどう結合するかを発展させることで、一層複雑な面白さが出るのではなかろうか」。
また、『読売新聞』は「たくましいリアリズム」と題して、
「現代彫刻といえば、最近は、抽象彫刻に限るような見方がある。国際的な動きに神経質に反応するのが、日本のお家芸である。彫刻界も全般的にはデザインに近づき、従来のマッスをつかみあてる具象彫刻など、すでに旧時代のものだと考えられるようになったからだ。ところが、具象彫刻でも、すぐれたものはあっていい。表面的な写実を超えて、現代人の心を凝結させたものが存在しても不思議ではない。 実力のある具象彫刻家がとくに期待される昨今、この期待にこたえているのが、十日まで、日本橋画廊でひらかれている権鎮圭彫刻展である。
テラコッタによる三十点。全身像や、ウマもあるが、なかでも約十点の胸像が注目される。「志媛」「春葉尼」「愛子」といった作品が示すように、いずれもモデルを使った肖像彫刻が、単なる肖像に終わっていない。むだな肉つきは削れるだけ削りとり、要約できるフォルムはできるだけ単純化し、可能な限り攻めた顔ひとつのなかに恐ろしいほどの緊張感が作りだされている。中世以前の宗教像に見るのに似た劇的感情の高まりが感じられる。
これらは見たところ、首から腰にかけての要約された形には現代イタリア代表のマンズー的なところがある。また、まるめられた頭や、高い鼻、大きくみひらかれた目の扱いなどは、メソポタミアに人類最古の文明を築いたシュメール人の原初的な肖像彫刻をにおわせるところもある。が、それらヨーロッパの影響はあるにしても、焼きあげた土に大地の生命が持つ率直さと、純朴と同時にたくましさを通わせようとする作者の造形の姿勢・風土は、どうみても東洋そのものだといえそうである。作者は、一九二二年韓国の生まれ。戦時中に来日し、戦後武蔵野美大の彫刻科を出た。一九五九年帰国して、現在ソウル弘益大学美術学部の彫刻科教授という。ともかくも、その肖像彫刻にみるたくましいリアリズムは、具象彫刻の貧困な現代日本の彫刻界に、ひとつの刺激となることはまちがいない」
と高く評価する。
出品した作品のうち《愛子》(No.55)と《春葉尼》(No.51)は東京国立近代美術館に寄贈される。また、この彫刻展のパンフレットには、師匠の清水多嘉示、彫刻家木内克、美術評論家本間正義が文章を寄せている。
・日本橋画廊にてトモと再会。
権は日本を離れて以来、トモとまったく連絡を取っていなかった。トモの消息を牧野英(C.S.YUN)に訪ねたところ、その連絡が昆保子を経由してトモの耳に入り、権の展覧会初日に日本橋画廊に駆けつけた。権を見つけるやいなや権に向かって「バカ」と叫び、号泣するトモに対し、彼女がすでに再婚したことを知った権は、感情を面に表すことはなかった。その場にいた権玉淵が、見かねて二人を近所の寿司屋に連れ出すが、権は無言を貫いていた。
・7 月20 日、展覧会終了後より二週間、赤荻賢司(武蔵美の後輩)の家に滞在する。
権は、トモが自分を待っていてくれると信じており、この機会に韓国に連れて帰るつもりであったらしい。「女はそんなに冷たいのか」と、ビールを飲んでは泣きながらこぼしたという。赤荻宅滞在中、《女人頭像》(No.72・73)など、帰国時の韓国通関を通るため、売れた分の作品をセメントで制作する。一点を赤荻邸に残す。
・7 月30 日、清水多嘉示を訪問。
展覧会も無事に終了し、まずまずの評価を得た権は、お礼も兼ねて恩師である清水多嘉示のもとを訪れる。また、武蔵美の田中誠治理事長のもとにも顔を出し、滞在費と制作費のめどが立ったため(日本橋画廊・児島徹郎が提供)、日本に戻って制作を続けたいという希望を伝える。この時の武蔵美は、すでに保田春彦の専任講師としての赴任が決定し、非常勤講師の人事が進められた時期であった。おそらく何らかの打診もあり、権は自分を非常勤講師として招請してくれることを期待したと思われる。
・8 月6 ~ 7 日、古美術研究旅行(奈良・京都)に参加。
奈良公園猿沢池畔の大文字に宿泊し、奈良の法隆寺や興福寺、東大寺などをバスで周り、宇治の平等院を見学する。東京に戻ったのち、帰国する。
・8 月29 日~ 9 月14 日、崔弘子をモデルとして《弘子》を制作。
・9 月17 日~ 28 日、弘益大学校工芸科出身の崔慶子をモデルとして《慶子》を制作。
・9 月25 日~ 10 月12 日、新人小説家の申禮善をモデルとして《禮善》(No.76)を制作。
・10 月17 日~ 11 月7 日、弘益大学校彫刻科3 年生の安希貞をモデルとして《希貞》(No.77)を制作。
・11 月12 日~ 12 月3 日、ソラボル芸術大学絵画科の李順兒をモデルとして《順兒》を制作。
7 月の日本橋画廊における展覧会で得た自信と、渡日への希望を抱き、この時期の権は精力的に制作に取り組んでいる。主にテラコッタの女性胸像が多かった。
・10 月24 日、日本橋画廊の児島徹郎が来韓。児島は権の来日計画について心配し、帰国する。
・11 月12 日、清水教授宛て書状を記す。
「清水先生おん前
前略 初冬の候お見舞申上げます
お陰様で東京の個展も無事に片付け、今はそれを顧みて次の仕事に着手してゐます。この度の個展の成果はすべて今日の私に育て上げて下さいました先生に差上げるべきだと思ひます。先生の厳しい「自然の構造」の訓への薫りを嗅ぐことが出来たればこそと自負してゐます。そしてこちらに埋れてた十年間割と視覚的に周囲のうるさくない処で先生の訓へを唯一の支柱にして自分を堀下げて行けた賜物だと信じてゐます。
それにつけ先生にもっと度々お近づきになり御指導を受けられぬ不如意は近くて遠い壁のなすしわざですが、この壁を押し開くべく武美校での小生の招請をお願ひしましたが、この事に就きましては田中理事長も諒解済みですが、ただ事務的なことだけが残ってゐると想像しでゐます。
去る十月末日本橋画廊の兒嶋徹郎さんもこちらに来まして大変心配して下さいましたが、甚だ恐れ入りますが、ひと言学校にpush しで下され度、不尊を顧みずお願ひ申し上げる次第でございます。先生のいつまでも御健勝をお祈り申し上げます。不備草々
十一月十二日 権鎮圭(権藤)上
追信。拙作の母校への寄贈の件はテラコッタで取扱ひに注意を要しますので慎重を期し次の機会に小生が持込んで行きたいと存じます。」
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この手紙において権は、大学の非常勤講師として採用されるよう、清水教授の力添えを懇願する。しかし、鷹の台キャンパスへの全学統合によって生じた学生自治会と大学側との意見の溝は、10 月に入りますます深まり、翌年には大学休校・封鎖措置が執られるに至る。これにより、権の非常勤講師採用は見送られる。
・12 月、朱雀や双竜などの文様、飾板、仏頭、鬼瓦、土器などのデザインを多く手がけ、制作。 |