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・ 1922~1944年 (1~22歳)

 

・ 1945年(23歳)

・ 1947年(25歳)

・ 1948年(26歳)

・ 1949年(27歳)

・ 1950年(28歳)

・ 1951年(29歳)

・ 1952年(30歳)

・ 1953年(31歳)

・ 1954年(32歳)

・ 1955年(33歳)

・ 1956年(34歳)

・ 1957年(35歳)

・ 1958年(36歳)

・ 1959年(37歳)

・ 1960年(38歳)

・ 1961年(39歳)

・ 1962年(40歳)

・ 1963年(41歳)

・ 1964年(42歳)

・ 1965年(43歳)

・ 1966年(44歳)

・ 1967年(45歳)

・ 1968年(46歳)

・ 1969年(47歳)

・ 1970年(48歳)

・ 1971年(49歳)

・ 1972年(50歳)

・ 1973年(51歳)

1922 ~ 1944 年(0 ~ 22 歳)

・1922 年4 月7 日(陰暦3 月11 日)、咸鏡南道咸興郡新昌里51 番地(1933年より咸興府楽民町、1943 年より咸興府楽民里、1950 年より咸興市楽民里)にて、安東権氏三十六世定周と永春趙氏錫漸の次女春の次男として誕生(長女春得、次女厚徳、長男鎮元、次男鎮圭、三女永淑、四女璟淑)。

咸興平野の中心都市である咸興は、東南を東海に面し、北には鎮山の盤龍山(東興山)が聳え、城川江、瑚璉川の二河が流れる。周辺には林檎などの果樹園が多い。また、朝鮮を開いた太祖李成桂の故郷であり、譲位後の潜邸であった咸興本宮、咸興城と南華門、太祖が名馬を誤って殺したという馳馬台、旧正月十五夜に踏橋する万歳橋など、東北辺境部における最大の文化都市である。父の権定周は早稲田大学商科専門部を卒業した後、事業を興し、三階建て洋式建物の洋服問屋「松島屋」を経営、不動産・建築業として黄金町を再開発するなど、経済的に豊かであった。また、母の趙春も裕福な参奉家の出身であり、才能豊かな賢母良妻であった。

・1930 年4 月、咸興第一公立普通学校入学(8 歳)。

・1934 年、湿性肋膜炎のため休学(12 歳)。姑母夫(父の姉妹の夫)が経営する盧正医院に長期入院。

・1937 年3 月、普通学校六年課程を卒業(14 歳)。しかし、咸興公立中学校の受験には失敗。

幼年期の権は、悪戯っ子と言われるほど活動的で明朗な性格であったという。女装して妹たちとままごとを良く行い、水泳とスケートを楽しみ、友達との交流も多く、明るくて活発な子供であった。ただし、軽い連声型吃音症があったため、言葉のどもりを気にして長く話そうとはしなかった。吃音症の治療後はそのようなこともなく、性格も落ち着き、父が買ってくれたカメラで写真撮影を楽しむようになる。

また、工作に才能があったようである。よく城川江の川辺で砂や粘土をもって犬や鳥など様々なものを作って遊んだり、母のために筆立てや足踏み台などを作ったり、書架の両側面をノコギリで切ってウサギの形に変えたり、古いスケートの刃を用いてソリを作ったり、ヨーヨーや凧などを作ったりしたという。1935 年、咸興商工会議所で行われた展示会に、木製糸巻を用いて制作した《鹿》を出品、入賞する。

・1938 年4 月5 日、春川公立中学校に入学(16 歳)。

親元を離れて江原道春川の中学校に通うことになり、最初は寮で一年を過ごす。2年に進級するといったん寮を出て、薬師里峠の望台の下で下宿をする。4年終了まで下宿先にとどまるが、5年進級と同時に、また寮に戻っている。地元ではなく春川の中学校を選んだ理由については、安辺郡新高山に石灰工場も経営していた父が、商業上の付き合いがあった春川の富商池奎卨を訪ねた時に、湖が多く、空気も澄んでいて、息子の健康にも良いと思ったからである。また、当時の春川公立中学校は咸興公立中学校に次ぐ水準であり、それが春川を選んだ別の理由でもある。

権の在学中、学内では民族主義結社「常緑会」や民族意識が強い図書を読む「読書会」などがあり、抗日運動が盛んであった。この「常緑会」と「読書会」の参加者は、1938 年12 月と1941 年2 月にそれぞれ検挙されている。このような学内における民族主義運動に対し、権自身は積極的に参加することはなかったものの、2年生の第二学期の授業中、朝鮮を蔑視する渡辺国語教諭の発言を厳しく批判するなど、自尊心は強かった。

・1940 年2月、朝鮮総督府の「朝鮮民事令」改正、創氏改名公布により「権藤武政」に改名(17 歳)。

・1942 年6 月23 日、扶余神宮建立に努力動員され、帰路の途中、論山灌燭寺を参拝する。

・1943 年3 月2 日、春川公立中学校卒業(20 歳、第15 回生)。

中学校時代の権は、1年次の身長が160㎝、5年次では164㎝、体重は51 ~ 55㎏であり、大柄の体格ではなかった。個性調査表には、4年次の欄にのみ「挙動小心、勇気なし」という内容がみられるものの、全体を通して「性質温順、勤勉、挙動普通、言語明瞭」と高評価を受けており、卒業時の人物査定には「温順な性質・堅固な思想、明晰な言語力、豊富な常識、趣味は登山・読書」と記載されている。3年次の第三学期には総代、4年次の第二学期には級長、5年次には寮長を務め、「責任感強し、継続的努力」と、その統率力も認められていた。優等生であり、卒業式において知事賞と優等賞を授与されている。

なお、権の図画の成績は学年で中間位であり、必ずしも悪くはなかった。しかし、同級生や下宿仲間によれば、中学時代の権からは、美術について語ったり、作品を制作したりした姿は印象にないようである。ところが、卒業後まもなく、一転して彫刻家を目指すようになる。新学期の始まりに合わせて日本に戻る兄鎮元(当時、日本医科大学に在学中)に同行し、権鎮圭は東京を訪れる。日比谷公会堂で音楽を聴いている最中に、ふと音を量感に変えて表現することはできないのかと思うようになったことが、その契機であった。

美術研究所に入って勉強を始めるが、まもなく立川市にある飛行機部品工廠(日立航空機株式会社の立川工廠ないし立川飛行機製作所)に徴用される。翌年の秋、工廠を逃げ出して帰国、故郷に戻り、州北にある果樹園に隠れて約1年間を過ごす。

 

1945 年(23 歳)

・二人の妹と共に、ソウルでの生活を始める。

朝鮮銀行に勤める永淑と、梨花女子大学校英文科に進学した璟淑と共に、ソウル城北洞にある父の知人宅に身を寄せる。この頃、権は美術学校への進学準備をしていたようで、同年11 月に恵化洞で会った李欄(中学同級生)に、「前から関心があった彫刻を学ぶために、日本の美術学校に行く予定」と告げている。なお、咸興に残っていた父母も1951 年初に越南し、大邱で避難生活をした後、1954 年5 月にソウル市鐘路区司諫洞9番地に定着、新たな戸籍を就籍する。

1947 年(25 歳)

・俗離山法住寺の大仏制作に参加。

金復鎮(東京美術学校彫刻科卒業)の遺作である俗離山法住寺大仏を尹孝重(東京美術学校彫刻科卒業)が引き継いで制作し、権はその作業に約6ヶ月間参加する。

・城北絵画研究所に入所、美術を学ぶ。

その後、李快大(1938 年3 月、帝国美術学校西洋画科卒業)が運営する城北絵画研究所(1947 年9 月~ 1950 年3 月)の研究員となり、金叔鎮、金瑞鳳、任直淳、金昌烈、沈竹子、李英恩らと共に、李快大が帝美時代に学んだ美術解剖学や芸術論などの学科と、石膏デッサンを中心とした実技を勉強する。的確なデッサンに基づく構造と造形を求めた李快大の指導は、そのまま清水多嘉示につながるものであった。また、李快大より清水多嘉示の話を聞いたのが、武蔵野美術学校への進学を決意する動機になったと思われる。

1948 年(26 歳)

・兄の看病のため、日本に密航。

日本医科大学を卒業して、山形県酒田市の大学付属病院に勤務していた兄鎮元が悪性肺炎を患っているとの連絡をもらう。兄の危篤の便りを受け、咸興にいる父母に代わって看護する名目で、日本に密航する。翌年春に兄は病死するが、帰国せずに東京にとどまり、私設の美術研究所において勉強を続ける。

1949 年(27 歳)

・9 月、武蔵野美術学校彫刻科に入学。

入学当時の学籍簿には「権藤武政」とあるが、後に「権鎮圭」に変更する。当時、武蔵野美術学校の通常の入学試験は実技(木炭を用いた石膏写生)、論文、口述試験であったが、後期入学の権がどのような試験を受けたかは不明である。なお、学科試験はなかった。

○ 履修関係

  1年 2年 3年 4年
  西洋美術史
(板垣鷹穂)
60 西洋美術史
(板垣鷹穂)
60        
  芸術概論
(片山敏彦)
60 美術哲学
(勝部真長)
55 美学
(板垣鷹穂)
65 哲学概論
(務台理作)
65
 

文化史
(名取嶈)

65

文化史
(名取嶈)

50        
  東洋美術史
(金原省吾)
55 東洋美術史
(金原省吾)
60        
  仏語
(川口博)
84 仏語
(川口博)
50 仏語
(川口博)
85    
      人体美学
(西田正秋)
65 教育学
(倉田三郎)
80    
  彫刻実技
(清水多嘉示)
84 彫刻実技
(清水多嘉示)
80 彫刻実技
(清水多嘉示)
81 彫刻実技
(清水多嘉示)
80
              卒業制作 90
出席 89/103日 137/201日 65/88日(前期)  

 

当時の彫刻科における学科科目は、「西洋美術史」「東洋美術史」「文化史」「人体美学」「仏語」が2年まで、「美学」が3年以降の必修科目であった。権は選択科目として「芸術概論」「美術哲学」「教育学」「哲学概論」と、(3年の)「仏語」を選んでいる。実技科目は、デッサンと人体彫刻が主であった。1年のうちは、実に全体の3分の2を石膏デッサンが占めていた。その他、動物デッサン、静物油彩、人体デッサンはわずかに学ぶ程度であった。2年以降は人体彫刻が主となり、石膏型取りを含む粘土塑造が中心で、他に木彫とセメント彫刻(塑造)の実習、ブロンズ鋳造所の見学などがあった。

1950 年代後半になると、2 年では人体彫刻の他、レリーフ浮彫、動物彫刻なども学ぶ。3年においても人体彫刻が主で、石彫、木彫、乾漆、テラコッタ、セメント彫刻(塑造)、石膏型取り、鉄材溶接など、様々な彫刻材料・技法の授業も受ける。4年においては人体彫刻のブロンズ鋳造などを学び、卒業制作に従事する。なお、4年のブロンズ鋳造は学内では行われず、鋳造所の見学のみであった。このような当時の教育課程をみると、権の作品にみられる制作技法の大半が、学校を中心に日本で習得したものであることがわかる。なお、石彫とテラコッタは、後述のように、権が武蔵野美術学校ではじめ、後輩たちはその影響を受けたようである。

1950 年(28 歳)

・2年生に進級、彫刻を始める。

少人数の彫刻科は2年生から研究生までが同じアトリエを共有していたため、先輩・後輩の絆が強かった。清水多嘉示の指導は、毎週木曜日の午前中3時間(モデル・ポーズ)で、学生一人一人の粘土の習作に対し、時には直接ヘラをあてて指導することもあった。夏休み、冬休みの間は、皆でいくらかの金額を出し合ってモデルを頼み、終日裸婦像の習作を行った。モデルのポーズは、毎回、皆の多数決で決めていた。

1951 年(29 歳)

・3年生に進級、石彫を始める。

吉祥寺の墓石屋から石を運び、馬を作る。当時の吉祥寺駅前には、貨物運搬の荷馬車が常に行き交っており、権はそこに出かけて馬の首のデッサンに励んだ。時々、吉祥寺で買った焼き芋を頬張りながら、校庭の一角で石彫を制作した。清水多嘉示は、権が進んで石彫を行うことについて好ましく思っていなかったようである。

権の石彫に対する関心は深く、片山敏彦からはミケランジェロやロダン、ギリシャ彫刻について、また、三雲祥之助からはロダンの弟子シャルル・デスピオの彫刻についての知識を得た。なお、三雲は権の石彫を見ながら「線がもう少し深くてはいけないのかね」と声をかけたという。この頃、権は仙名秀雄に「人間のために人間の彫刻が作りたいので、ヨーロッパ、特にギリシャに行ってみたい」と語ったという。また、権の石彫への取り組みに影響を受け、石彫の伝統がなかった武蔵美において、牧野英、富樫一、阿部忠などの学友たちも石彫を本格的に始めるようになる。

・夏、仙名秀雄と共に京都に旅行。

西田正秋(東京美術学校教授、人体美学担当)の紹介により、智積院に二泊し、藤井斉成会有鄰館にある中国の石仏を見学する。この時、権は仙名に「石がほしい、大陸の石がほしい」と語る。

・トモの頭像を制作。

実技授業を同じアトリエで受けた際に知り合った西洋画科2 年荻野トモにモデルを依頼し、《トモ》(石膏、No.1)を制作する。その後もトモをモデルとした作品をいくつか制作しているが、これがきっかけとなり、二人の交際が始まる。

1952 年(30 歳)

・9 月、第37 回二科展(9 月1 ~ 19 日、東京都美術館)に石彫《白昼夢》を出品、入選。この頃、国立町83 − 1 の中川方に住居する。

・卒業制作として、等身大の《裸婦》(石膏、No.3)を制作。

1953 年(31 歳)

・3 月20 日、武蔵野美術学校彫刻科卒業(30 歳)。

卒業式の集合写真に権の姿はないが、荻窪の料亭で行われた謝恩会には参加している。卒業後も研究科に残り、1956 年3 月までの4年間、武蔵美において制作を続ける。なお、当時の研究科に関する学生簿等の資料は現存しないが、規約には「研究科の修学期間は一年以上」とあるだけで、特に年限はなかった。権は研究科修了後も学校で制作することがたびたびあった。また、権は後輩たちのホープであった。学友たちは、彫刻そして芸術について権との会話から様々なことを学び、一人の彫刻家として敬意をもち、また制作でも権から影響を受けた。

・9 月、第38 回二科展(9 月1 ~ 19 日、東京都美術館)に石彫の《騎士》(No.5)、《馬首A》、《馬首B》(No.6)を出品、「特待」を受賞。

この頃、権は武蔵野市吉祥寺2800 西大久保方の三畳一間に下宿していたが、生活苦からそこを引き払い、交際していた荻野トモのアパートに身を寄せ、同棲する。しかし、そこでは彫刻制作ができないことから、すぐに練馬区関町1-166 館野方に引っ越し、制作は主に学校で続けた。学部卒業後、実家からの仕送りは断たれていたため、主にトモのアルバイト(ミシン裁縫・縫製)代が権の生活を支えていた。それにもかかわらず、中野にあったクラッシック専門の音楽喫茶に二人で通いつめ、当時1杯50 円のコーヒー(蕎麦と同額)を注文し、音楽を楽しむ生活を続けた。なお、権の困窮を見かねた田中誠治理事長が《騎士》、《馬首B》、《蛇》(No.12)を買い取り、学費を負担したとの伝聞がある。

1954 年(32 歳)

・映画『ゴジラの逆襲』(東宝、1955 年公開)撮影用セットを制作。

この年、映画の撮影用セットを石膏で制作する武蔵美グループ「石膏屋」(富樫一、権鎮圭、赤萩賢司、東喜久夫、成田亨)としてアルバイトを始める。『ゴジラの逆襲』では大阪淀屋橋が舞台であり、権は銀行の模型制作を担当した。2ヶ月間、幼稚園と呼ばれる東宝撮影所の宿舎に宿泊し、仕事に従事する。このアルバイト代をもとに皆で彫刻を作ろうと話し合う。

その後も『智恵子抄』(東宝、1957 年公開)では高村光太郎の彫刻の模刻10 点余りを制作するなど、東宝、大映、松竹の各撮影所でのアルバイトは1957 年まで続く。

・9 月、第39 回二科展(9 月1 ~ 19 日、東京都美術館)に石彫の《馬首》,《馬》を出品、2点とも入選。

「権藤武政の馬を扱った作品にはロマネスクの彫刻に見るような素朴な魅力がある」と評される。この頃、三鷹市牟礼447 正大寮に居住する。なお、山口長男(西洋画科教授)は、この年の『武蔵野美術』14 号(11月1 日発行)において、第39 回二科展に出品した権の作品に対し、「彫刻の同じ校友権藤武政君アルカイクで異質の表現力が持主で古典的造型に迫真している態度を貰いたいフォルムが美しい。もう一歩の躍進を望む」という評を寄せている。

1955 年(33 歳)

・テラコッタ制作を始める。

この年の夏、働くトモを東京に残し、一人でトモの実家(新潟県新発田)を訪れる。滞在中、粘土で制作を行う。トモの実家の近くにある乙法寺周辺に多くの瓦窯があったことから関心を持ち、窯を見学し、粘土による自作の馬頭、牛頭などを自らリヤカーを引いて運び込み、焼成した。テラコッタへの関心は東京に戻ってからも強まり、大学内にテラコッタ用の窯を作るほどであった。この時期の作品は大半が馬であり、トモとの部屋と学校のアトリエには、馬の彫刻が数多く並んでいた。

・9 月、第40 回二科展(9 月1 ~ 19 日、東京都美術館)に石彫の《馬首A》(No.13)、《馬首B》を出品、2点とも入選。「素朴なロマネスク様式を思わせる手法で牧歌的情緒をあらわしている」と評される。

・夏から秋にかけて、木造の女人立像、菩薩立像、裸婦像を制作。

この年はまた、佐渡に住む宇田靖夫(彫刻科後輩)の実家も訪ねている。午後8時過ぎ、麦藁帽子に草履という出で立ちで突然現れた権は、海辺で新聞を読むなど、ゆったりとした時間を数日間過ごして新発田に戻る。この際、トモの父から亡くなった妻兄(トモの母の姉)のための供養像の制作を依頼される。近くの梨畑から木材を調達し、山形の温泉において《女人立像》(No.14)を制作する。この作品はフリア美術館蔵《石造菩薩立像》(中国・7 世紀)を範としているが、顔や撫で肩の表現などは、亡くなったおばさんによく似ているとされる。次いで、自主制作として木造の《菩薩立像》(No.15)と《裸婦》(No.16)の制作にも取りかかった。

1956 年(34 歳)

・9 月8 日午前11 時、ソウル市鐘路区司諫洞9番地にて、父権定周急死。

父の死因は、高血圧による疾患のためであった。妻趙春が死亡届を提出したのは27 日のことである。権が在日中であり、戸主は趙春が相続する。

・10 月、「フランス国立ブルデル美術館提供 巨匠ブルデル彫刻絵画展」(10月5 日~ 11 月7 日、東京・ブリヂストン美術館)見学。

ここで権は、ブールデルの彫刻32 点、絵画30 点に接し、清水教授が持っていた図書や写真、小品などで接していたブールデルの作品を直に見ることになる。《女の顔》(ギリシャ)、ロダン作《立てるフォーネス》(石造)、ブールデル作《ペネロープ》(ブロンズ)の葉書を購入する。また、11 月に出版された清水多嘉示編著『ブルデル彫刻作品集』(筑摩書房)を購入し、生涯大事にする。

1957 年(35 歳)

・NOVA マネキン社におけるマネキン制作のアルバイトを始める(1959年、帰国まで)。

二科会から一陽会への出品変更を承諾してくれるのであれば食べられるように職を都合するという高岡徳太郎の誘いに乗じたものであった。トモもよくマネキン制作を手伝い、マネキンの顔などを描いた。一方、権はマネキンの型を用いて乾漆の練習も行った。この頃の二人の生活はかなり困窮しており、食事はほとんど自炊で、洗濯たらいでアミの塩辛や切り干し大根などを入れてキムチを作り、食べていたという。

1958 年(36 歳)

・春、宇田靖夫の卒業制作石膏《裸婦》を撮影。

権は宇田の卒業制作石膏《裸婦》を見て、玄関の外にある松の下に運び出し、そこで写真を撮る。権に憧れる宇田は、自らの作品を卒業までそのままにしておいた。

・第4 回一陽会美術展覧会(9 月22 日~ 10 月10 日、東京都美術館)に《裸婦》、《首(テラコッタ)》
(No.20)、《首(テラコッタ)》、《石馬》、《石馬》の5 点を出品、一陽賞を受賞、会友に推薦される。

入選作品感想欄に「石の首は、ほのぼのと血が通って話しかけて来るようです」と評される。この頃、練馬区南町3- 843 に住居する。また、『武蔵野美術』創立30 周年記念特集号(12 月1 日発行)において《首》(No.20)が取り上げられ、「彫刻科卒の権藤武政はしばらく二科に出品して受賞などもしていたが、今年一陽会に出品して受賞、会友推薦」と、優秀な卒業生として紹介されている。

1959년(38세)

・6 月、河野国夫『舞台装置の仕事』(未来社)を購入。

・夏、母の介護のために帰国を決意。

母の健康が優れないとの知らせを受け、権は帰国を決心する。父の死後、母は一人で暮らすようになり、兄もすでに亡くなっており、自分が長男としての役割を果たすべきという責任感にさいなまれての帰国の決意であった。

しかし、当時の韓国・日本の間にはまだ国交が樹立しておらず、トモを伴っての帰国は困難であると考えた。そこで、韓国での生活が落ち着いたらトモを呼び寄せることとし、その証として、練馬区役所に婚姻届を提出する。(8 月6 日)

・9 月、羽田空港から単身帰国。

兄鎮元の遺骨を抱いて帰国する。日本で制作した作品は船便で送ったが、開封したところ破損が多かった。家庭の経済状況の悪化により城北区東仙洞3-250 に引越し、母と共に暮らす。大型記念像を制作するため、屋根を高くして、テラコッタ作品を焼くことができる窯を作り、自分の構想通りのアトリエを2年かけて1962 年に完成させる。また、羽田空港で最後に撮ったトモとの写真など、日本から持ち帰ったトモの写真三枚とトモの自画像(油絵)は、アトリエの中央に置かれていた。

・10 月27 日、韓国の戸籍を就籍、戸主を相続。

この頃の権の生活は、朝(6 ~ 8 時)、午前(10 ~ 13 時)、午後(15~ 18 時)、夜(20 ~ 22 時)と分けて制作作業を行い、朝と夜は主に構想とドローイングに、午前と午後に作品制作に当てている。なお、1970年代に入ると、権は夜の作業は行わず、夕食を日没前に済ませて早く床につき、早朝4 時には起床する。起床後、まずはブラックコーヒーと煙草を口にし、ラジオか音楽をかけながら作業を始めるのが日課となる。アトリエの近隣住民からは、「鬼」が住んでいると言われたこともあった。

1960 年(38 歳)

・4 月、ソウル大学校工科大学に非常勤講師として勤務(1973 年5 月3 日、死亡により解雇)。

3 年生の選択科目「彫塑」(週3時間)を担当する。実技室で粘土をもって自分の顔や足などを自由に作る授業であるが、初歩の学生にはビーナスやアグリッパなどの石膏像の模造を、すでにある程度勉強をした学生には半抽象などを選択させる。70 年代には、2年生に自在画(デッサン)や版画も教える。

1961 年(39 歳)

・権玉淵、フランスより帰国。

1957 年に渡仏していた親戚の権玉淵がこの年帰国する。以降、二人の交流が始まる。

・映画社関係の仕事で知り合った、電話交換員をしていた女性と再婚するも、まもなく離婚。

・7 月7 日~ 11 月30 日、南大門修理(1961 年7 月~ 1963 年3 月)に製図士として参加。

非常勤講師を勤めていたソウル大学校工科大学の金正秀教授(ソウル市文化財保存委員)の関係である。その後も現場に出入りし、1962 年2 月14 日にも景福宮や南大門の彫刻を撮影し、スケッチを行っている。特に、屋根の雑像、木組み、栱包などに関心をもっていたようである。南大門の修理に参加し、伝統木造建築を詳しく観察できた経験は、その後の雑像や栱包、城門などのテラコッタ・レリーフの制作につながる (No. 36・37)。

1962 年(40 歳)

・1 月、年賀状の背面に裸婦をスケッチする。

・2 月、鎮海を訪れる。

朝鮮時代の水軍を再現するイベントを参観し、写真を撮り、旗の文様などをデザインする。これは、映画関係の仕事をしている妹弟・許旭寅を手伝い、映画撮影道具を制作するための旅行である。その後も数年間、貞陵の妹宅に設けられたスタジオにて、壬辰倭乱の水軍司令官「李舜臣」、韓国古典小説の「興夫伝」「コンジ・バッジ伝」などを人形や小品を用いて撮影する人形劇映画に参加し、背景や人形、デザインなどを担当する。

・夏、妹の権璟淑のため、《十長生》を制作。

アトリエを完成した後、前年春に妹夫妻が貞陵に建てた家の居間に、壁画《十長生》を制作する。

1963 年(41 歳)

・1963 年、徳成女子大学の衣裳科と生活美術科に助教授として就任(同大学の記録による)。

また、1964 年と1965 年には衣裳科講師として美術を担当した旨が、同大学の記録に残っている。しかし実際には、同大学に衣裳科を設置するにあたり、文教部認可のために「東京美術大学・碩士」という権の学歴が利用されたに過ぎなかった。3年間、非常勤講師のような扱いでデッサン実技を教える。

・英姫が権家に引き取られる。

この年、母は江原道春川出身の朴英姫(10 歳)を連れてきて、彼女を育てるようになる。権は英姫をモデルにした作品(No.23)をいくつか制作している。英姫は家事を手伝い、権の世話をし、制作の手伝いもする(1970 年まで)。

・5月、小野勝年『高句麗の壁画』(平凡社、1957 年)に収録されている舞踊塚(5 世紀)の朱雀の頭部を参考にして、テラコッタ《海神》(No.21)を制作。

・8 月11 日、昨年10 月3 日に『東亜日報』に紹介された「俗離山法住寺」の記事を思い出し、日本留学前に参加した大仏を見に、法住寺を訪問する。

・テラコッタ《猫》を制作。

家で飼っていた猫の写真を撮り、ドローイング(No.D22)やテラコッタの作品(No.22・24)を制作する。権は、咸興にいた頃も猫を飼っていた。その後、1965 年頃にも妹の璟淑よりもらったフォックステリアの"デビュー"を2年間飼い、ドローイング(No.D28)を残すなど、ペットを好んだ。在日中もそうであったが、身近な動物を観察して制作のモチーフとする傾向がある。

1964 年(42 歳)

・1 月23 日、セザンヌの《浴女》を模写。この他、欧米モダニズムの影響が窺えるスケッチを描く。

・2 月末、白河石を用いた「石彫、馬頭二分一個、雑像一個、城」を制作。また、故郷を偲び「明日、旧正月、明月日。於故里咸興踏橋(萬歳橋)日也」とスケッチブックに書く。

・7 月18 日、《牧神》を《舟人》に改作。

権によれば、「「牧神」は何の内容がない。この作品の継続は無意味である。この作品をベースにして手を挙げる舟人に改作」するという。また、この頃、楽浪の鬼面や古宮平面図などのスケッチを行う。

・7月20 日、テラコッタ・レリーフの構想を始める。

金田辰弘の《重い翼》(1961 年、木板・油絵)などを参考にして、権はテラコッタ・レリーフの制作に着手するようになる。鳥をモチーフとした作品を1965 年に、鳥に花を加えた作品(No.41 ~ 43) を1966 年に 発表する。

・7 月27 日、メキシコの「サポテクラ文化ミトラ宮殿壁画」、「初期キクテラス文化子持壺ケレノス断片」などのスケッチを制作。

権はこれらの壁画や壺の断片に描かれた絵画について、「マヤ文化、高句麗(現、中国東北地方)の壁画と酷似(共通)するものがあると認めざるを得ない」と書き残している。

・7 月28 日~ 8 月2 日、レリーフ《舟人》を制作。

ブールデルの『Rodin』(訳:清水多嘉示・関義、筑摩書房、1956 年12 月)を抱えて牛耳洞渓谷を訪れた権は、沐浴しながらこの書を読んだという。帰宅すると、レリーフ《舟人》のテラコッタ用型を起こし、8 月2 日には窯焼きを行う。翌3 日、窯を大きく改築する。

・8 月6 日、レリーフ《楽士》の再仕上げ。

「楽士」(No.27)は、ブールデルの《アポロンの瞑想と走り寄るミューズたち》(シャンゼリゼ劇場正面装飾レリーフ)を参考に制作したものである。このレリーフ作品を再び焼き、黒色に仕上げる。

・8 月7 日、徳寿宮博物館を参観。『国立博物館案内』を購入。

・8 月11 日、レリーフ《曲馬団(Cirque)》のドローイングを作成。

・12 月、木彫《入山》を構想、制作。

1965 年(43 歳)

・2 月13 日~ 3 月3 日、《Circus》《Comedie》を制作。

権はまず、2 月13 日に《Circus》を彫刻板から外し、太陽光線で乾燥させる。3 月1 日朝、「エトルスクの狼の乳房のような、丸くもなく角でもないガッチリ胸板にくっついたそのブロンズ色の乳房、自分の作品にそれらが現はれてくれればと思っている」とのメモを付し、《Comedie》に弁柄と白土(白セメント)の混合物を塗って最終乾燥させる。着色は、《Circus》には白色セメントのみを塗布するのに対し、《Comedie》には半乾時に白色セメントを塗り、さらに乾燥後にFeO と白色セメントを1:10 の割合で配合したものを上に塗布した。2 日、この二作品を窯に入れ、焼成する。3 日、この二作品を窯から取り出し、《Comedie》の右側人物上半身に補修を加えた。4 日には、午前10 時~午後2 時にかけて、道先 寺に登山している。

・4 月20 日、荻野トモと協議離婚。

帰国後、6 年が過ぎても連絡のない権に対し、荻野トモの両親は離婚のための書類を送付する。しばらくの後、権がその書類に捺印、返送し、合意離婚が成立した。その後、荻野トモは河西成吾と再婚する。

・この年の6 月以降、レリーフ作品を中心として継続的に制作。

・7 月12 日、母が脳血栓で臥病。

・彫刻作品を制作するようになった動機について、権自身の言葉を雑誌に掲載。

雑誌に掲載された「日本で彫刻を研究した権鎮圭氏」と題する記事において、次のような言葉が記述されている。 「自己の天職を発見することのほとんどは極めて簡単な動機による場合が多いようである。日比谷公会堂の音楽ホールでミューズの虜になったとき、ふと、音を量感に変えて表現することはできないのかと思うようになって以来、一貫してその道を歩んで二十年になる。美術学校時節、石を彫っていた時に、日本の彫刻家たちからあなたは新羅の後孫に違いないといわれ、少し不快を感じたことがある。しかし、帰国してその事実を知った。我が同胞たちは石に対する何だかの天分をもっていることをわかった。石垣を積んでいる無名の石工の才能は石窟庵の巨匠とも通じるであろう。今はまだ芸術家と威張る水準に達していない。それでもやはり私は徹底的な匠人気質をもって進むのみである」 なぜ彫刻を制作するようになったのか、権自身の言葉で、その理由や石彫に関して述べている。

・9 月1 ~ 10 日、新聞会館にて「権鎮圭彫刻展 SCULPTURE terracotta」開催。

この時の個展への出展作は、《首》(No.20)、《Oiseoux》、《馬頭》、《希求》、《海神》(No.21)、《手》、《牛頭》、《裸婦》、《胎》、《Chat noir》(No.22)、《トモ》、《再会》、《英姫》(No.23)、《Dance》、《舟人(Bout man)》、《馬》、《騎手》などのテラコッタ、《楽士》(No.27)、《SPRING》(No.29)、《Circus》、《Comedie》、《舟人舞》(No.30)、《Horseman》、《Dynasty》(No.31)、《画家とモデル》などのテラコッタ・レリーフ、ブロンズの《青年》(No.8)、石膏の《祖国》、木彫の《入門(入山)》などであり、計45 点で構成されていた。なお、《祖国》は、ロダンの《ピエール・ドゥ・ウィッシャン》に酷似した作品であり、等身大の石膏造男子立像で、モデルは市場の荷物運ぶ男性である。

これは、韓国初の彫刻個展で、さらに金秀錫と李景文が運営する秀画廊が経費を負担して開催した画廊招待展でもあり、当時の韓国では初の試みであったにも関わらず、展覧会の評判は極めて冷たいものであった。芸術の軸がヨーロッパからアメリカに移り、抽象彫刻や新しい材料の実験的な新美術の導入が始まった当時の美術界において、彼の作品は近代彫刻の伝統にしがみつく時代遅れなものとしか認識されなかった。展示期間中、権玉淵が新聞研究所研究員の劉俊相を紹介する。

・李宣子が権のアトリエに通い、彫刻を学ぶ。

梨花女子大学校西洋画科の李宣子は、権の個展を見て感動を受け、権のもとで彫刻を学び、石膏による自刻像などを制作する。また、権のモデルともなり、《宣子》 (No.40,44,60) などの1966 年に制作された作品が多い。なお、李宣子がアトリエで権の指導を受けながら彼女の自刻像(1966年、石膏)や《牛》(1966 年、テラコッタ)などを制作する。権は彼女が残した《牛》の石膏型を利用してテラコッタ(No.46)や乾漆を制作し、1971 年の明東画廊の展示に出品する。また、李宣子の高校同級生(京畿女高47 回)であった南明子(ソウル大学校音楽大学バイオリン専攻卒業、KBS オーケストラ団員)や姜愛子、崔明子(梨花女子大学校器楽科コントラバス専攻卒業)などがアトリエによく遊びに行き、権のモデルとなる。南明子をモデルとして《明子》(1966 年、テラコッタ、No.38)を制作し、明子の依頼を受け、《明子》のブロンズ(1966 年、No.39)も制作する。姜愛子をモデルとして《愛子》(1967 年、No.55・56)、崔明子をモデルとして《明子》(頭像、1966 年、テラコッタ)を制作し、これらテラコッタは日本橋画廊に出品する。

・この頃、『美術手帖』(1961 年12 月号)に特集されたジャコメッティの作品のうち、《壜》(1953 年、油彩)を範としてスケッチと油絵を制作。

・秀画廊の依頼により、鬼瓦や龍灯、スタンド、土器などを制作。

1966 年(44 歳)

・3 月、弘益大学校美術学部彫刻科の非常勤講師として「彫刻」を教える(1968 年度まで)。

彫刻科3~4年生に「彫刻」、西洋画科と工芸科の学生に教養実技として「彫塑」を教える。権は学生たちに彫刻を教えながら「西欧の彫刻は彼ら集団の骨髄に根付いた全般的な思想、生活感情、伝統の中で集約されたものである。彼らの新しい造形理念はその巨大な伝統に基づいて生まれたものである。我々が何の内面的衝撃を起こさずに、安易に彼らが指向する芸術の流れのなかに私たちの芸術行為の焦点を合わせるならば、我らは永遠に彼らの真似ばかりする自己喪失者になってしまうであろう」と語り、精神に基づいた造形の重要性についてしばしば述べている(1966 年に彫刻科学生として権に彫刻を学んだ金光振の証言。彼の弘益大学校大学院修士論文『権鎮圭造形世界考察』、1977 年11 月、21 頁)。

・7 月24 日午前2 時、母趙春死去。8 月11 日、権鎮圭が死亡届を提出。

・10 月、乾漆制作を考えたようで、日本にいる李宣子の兄に材料を頼む。しかし、その後の流れは不明であるが、《明子》の乾漆を試みるなど、乾漆制作の実験を行ったことは確かである。乾漆を本格的に始めるのは1970 年頃である。

・10 月12 日、李宣子がアメリカ留学に行く。権鎮圭は劉俊相、南明子と共に金浦空港で見送る。

1967 年(45 歳)

・4 月『ソウル南大門修理報告書』(ソウル特別市教育委員会、1966 年2月)に依拠したデッサンを行う。

・《子どもを抱くヴィーナス(Venus with Child)》を制作。

権はこの作品の制作にあたり、外で見かけた妊婦から着想したという。また、この作品には古代シュメール彫刻の影響がうかがえる。

・8 月7 ~ 10 日、黄某(ソウル大学校建築科卒)と江原道の雪岳山、江陵、東海などを旅行。また、8 月29 日には仁川・芍藥島を訪ねている。

・秋、新世界百貨店の展示場にて劉俊相の紹介によりソラボル芸大生の李順児と知り合う。この時、権が李順児に渡した名刺には「テラコッタ 権鎮圭」とあった。権の依頼により、李順児はモデルを勤めるようになる。

・日本での個展開催が決まり、新たな作品の制作に取り組む。

前々年、新聞会館で開催された権の個展(1965 年、ソウル)が思わしい評価を得られなかったのに対し、同年に日本橋画廊(1965 年、東京)で開催された西洋画家権玉淵の個展は、好評を博すものであった。彫刻展を開きたいという日本橋画廊の画廊主・児島徹郎に、権玉淵は権鎮圭を推薦する。早速来韓した児島は権のアトリエを訪ね、翌年の個展開催を約束する。

これに鼓舞された権鎮圭は、これまでに増して精力的に作品制作に取り組む。1965 年の個展以来親交のある劉俊相と、美学についてよく語り合い、劉は「芸術は間接的とはいえ、人間の経験の反映であり、モディリアーニの肖像は彼の周辺に生きていた人々の姿であった」と「出会いの美学」を述べ、演劇志望者や新聞会館職員の女性たちを権にモデルとして紹介する。また、弘益大学校で知り合った西洋画科の張志媛、工芸科の崔慶子、呉亨子などをモデルとした《志媛》(No.53・54)、《慶子》などを制作する。

・12月から翌年1月まで、様々なポーズによる裸婦像のテラコッタを制作。

1968 年(46 歳)

・2 月、アンリ・ヴェルヌイユ(Henri Verneuil)監督、アンソニー・クイン(Anthony Quinn)主演の映画「25 時」(1967 年、イタリア)を鑑賞。権は、この映画を二回にわたり見に行っている。まず2 月15 日に張志媛と、18 日には崔景子と出かけている。

・2 月、《おさげ》、《鉉玉》を制作。

《おさげ》(No.67,68)は朴英姫を、《鉉玉》(No.69)はソラボル芸術大学絵画科の金鉉玉をそれぞれモデルとした胸像である。金鉉玉は、1967 年秋に劉俊相の紹介により権と知り合い、1970 年の末まで権のアトリエに通う。

・4 月、《恵正》を制作。

3 月9 日、劉俊相の紹介により、ソウル演劇学校(現、ソウル芸術大学)で演劇を学んでいる羅恵正と知り合う。翌月には羅恵正をモデルとし、《恵正》(No.70)を完成させる。

・7 月11 日~ 20 日、東京・日本橋画廊にて「権鎮圭彫刻展(テラコッタ)」開催。

この時の個展はいずれもテラコッタの作品30 点で構成され、出品作は以下の通りである。

《江原の女》、《比丘僧》、《再会》(No.50)、《春葉尼》(No.51)、《浴女》、《志媛》(No.53)、《愛子》(No.55)、《午下り》(No.64)、《権助》(No.58)、《宣子》(No.60)、《首》(No.20)、《鳳淑》、《浴後》、《ポーズ》(No.62)、《団地の女》、《あさ》、《ひる》、《嫌だ》(No.65)、《そのあと》、《あくるあさ》、《おさげ》(No.67)、《恵正》(No.70)、《英姫》(No.23)、《馬》、《明子》(No.38)、《清湖洞の女》、《西江の女》、《蓮実の首》、《侍女》(No.71)、《ダンス》

この展示はおおむね高い評価を受け、『東京新聞』(7 月19 日夕刊)や『読売新聞』(7 月18 日)などに紹介される。 『東京新聞』は「近代的な具象彫刻の面白さ、権鎮圭彫刻展」と題して次のように紹介する。

「一九二二年生まれで、戦後、武蔵野美大で彫刻を学び、在日二十年、ここ十年間はソウルに帰国している韓国の作家である。小品の全身裸婦像群と胸像二十点の合計三十点を見せている。全身像はこの作家の勉強の幅や過程を示すもので、ブールデル、マイヨール、エジプト、タナグラ彫刻などを吸収しようとしているのが、わかる。これらは個性的な集中力に弱く、ポーズの表情に頼っている弱点が見えるが、胸像の作品群では独自なものを表現しはじめていて、面白い。

胸から首にかけての形を三角錐(すい)の量塊につかんでいるのはイタリア現代彫刻のジャコモ・マンズーを連想させはするが、物体の安定感や大きさはよくとらえられている。そしてそれに続く顔はムダな肉付けを落とし、細面となっている。表面的なキメ細かさをねらわず、大きく、重く安定する彫刻性がある。そこに、日本人の感性とちがった風土性を感じさせられるが、それでいて要所には鋭さが走っており、近代的な具象彫刻の面白さをもっているのである。

頭髪のないもの(「春葉尼」など)やネッカチーフで髪をくるんだ作品(「志媛」「愛子」など)は、作品としてはまとまりはいいけれど、欲をいえば「侍女」のように頭髪をまともに扱い、首と胸の三角錐とどう結合するかを発展させることで、一層複雑な面白さが出るのではなかろうか」。

また、『読売新聞』は「たくましいリアリズム」と題して、

「現代彫刻といえば、最近は、抽象彫刻に限るような見方がある。国際的な動きに神経質に反応するのが、日本のお家芸である。彫刻界も全般的にはデザインに近づき、従来のマッスをつかみあてる具象彫刻など、すでに旧時代のものだと考えられるようになったからだ。ところが、具象彫刻でも、すぐれたものはあっていい。表面的な写実を超えて、現代人の心を凝結させたものが存在しても不思議ではない。 実力のある具象彫刻家がとくに期待される昨今、この期待にこたえているのが、十日まで、日本橋画廊でひらかれている権鎮圭彫刻展である。

テラコッタによる三十点。全身像や、ウマもあるが、なかでも約十点の胸像が注目される。「志媛」「春葉尼」「愛子」といった作品が示すように、いずれもモデルを使った肖像彫刻が、単なる肖像に終わっていない。むだな肉つきは削れるだけ削りとり、要約できるフォルムはできるだけ単純化し、可能な限り攻めた顔ひとつのなかに恐ろしいほどの緊張感が作りだされている。中世以前の宗教像に見るのに似た劇的感情の高まりが感じられる。

これらは見たところ、首から腰にかけての要約された形には現代イタリア代表のマンズー的なところがある。また、まるめられた頭や、高い鼻、大きくみひらかれた目の扱いなどは、メソポタミアに人類最古の文明を築いたシュメール人の原初的な肖像彫刻をにおわせるところもある。が、それらヨーロッパの影響はあるにしても、焼きあげた土に大地の生命が持つ率直さと、純朴と同時にたくましさを通わせようとする作者の造形の姿勢・風土は、どうみても東洋そのものだといえそうである。作者は、一九二二年韓国の生まれ。戦時中に来日し、戦後武蔵野美大の彫刻科を出た。一九五九年帰国して、現在ソウル弘益大学美術学部の彫刻科教授という。ともかくも、その肖像彫刻にみるたくましいリアリズムは、具象彫刻の貧困な現代日本の彫刻界に、ひとつの刺激となることはまちがいない」

と高く評価する。

出品した作品のうち《愛子》(No.55)と《春葉尼》(No.51)は東京国立近代美術館に寄贈される。また、この彫刻展のパンフレットには、師匠の清水多嘉示、彫刻家木内克、美術評論家本間正義が文章を寄せている。

・日本橋画廊にてトモと再会。

権は日本を離れて以来、トモとまったく連絡を取っていなかった。トモの消息を牧野英(C.S.YUN)に訪ねたところ、その連絡が昆保子を経由してトモの耳に入り、権の展覧会初日に日本橋画廊に駆けつけた。権を見つけるやいなや権に向かって「バカ」と叫び、号泣するトモに対し、彼女がすでに再婚したことを知った権は、感情を面に表すことはなかった。その場にいた権玉淵が、見かねて二人を近所の寿司屋に連れ出すが、権は無言を貫いていた。

・7 月20 日、展覧会終了後より二週間、赤荻賢司(武蔵美の後輩)の家に滞在する。

権は、トモが自分を待っていてくれると信じており、この機会に韓国に連れて帰るつもりであったらしい。「女はそんなに冷たいのか」と、ビールを飲んでは泣きながらこぼしたという。赤荻宅滞在中、《女人頭像》(No.72・73)など、帰国時の韓国通関を通るため、売れた分の作品をセメントで制作する。一点を赤荻邸に残す。

・7 月30 日、清水多嘉示を訪問。

展覧会も無事に終了し、まずまずの評価を得た権は、お礼も兼ねて恩師である清水多嘉示のもとを訪れる。また、武蔵美の田中誠治理事長のもとにも顔を出し、滞在費と制作費のめどが立ったため(日本橋画廊・児島徹郎が提供)、日本に戻って制作を続けたいという希望を伝える。この時の武蔵美は、すでに保田春彦の専任講師としての赴任が決定し、非常勤講師の人事が進められた時期であった。おそらく何らかの打診もあり、権は自分を非常勤講師として招請してくれることを期待したと思われる。

・8 月6 ~ 7 日、古美術研究旅行(奈良・京都)に参加。

奈良公園猿沢池畔の大文字に宿泊し、奈良の法隆寺や興福寺、東大寺などをバスで周り、宇治の平等院を見学する。東京に戻ったのち、帰国する。

・8 月29 日~ 9 月14 日、崔弘子をモデルとして《弘子》を制作。

・9 月17 日~ 28 日、弘益大学校工芸科出身の崔慶子をモデルとして《慶子》を制作。

・9 月25 日~ 10 月12 日、新人小説家の申禮善をモデルとして《禮善》(No.76)を制作。

・10 月17 日~ 11 月7 日、弘益大学校彫刻科3 年生の安希貞をモデルとして《希貞》(No.77)を制作。

・11 月12 日~ 12 月3 日、ソラボル芸術大学絵画科の李順兒をモデルとして《順兒》を制作。

7 月の日本橋画廊における展覧会で得た自信と、渡日への希望を抱き、この時期の権は精力的に制作に取り組んでいる。主にテラコッタの女性胸像が多かった。

・10 月24 日、日本橋画廊の児島徹郎が来韓。児島は権の来日計画について心配し、帰国する。

・11 月12 日、清水教授宛て書状を記す。

 

「清水先生おん前

前略 初冬の候お見舞申上げます

お陰様で東京の個展も無事に片付け、今はそれを顧みて次の仕事に着手してゐます。この度の個展の成果はすべて今日の私に育て上げて下さいました先生に差上げるべきだと思ひます。先生の厳しい「自然の構造」の訓への薫りを嗅ぐことが出来たればこそと自負してゐます。そしてこちらに埋れてた十年間割と視覚的に周囲のうるさくない処で先生の訓へを唯一の支柱にして自分を堀下げて行けた賜物だと信じてゐます。

それにつけ先生にもっと度々お近づきになり御指導を受けられぬ不如意は近くて遠い壁のなすしわざですが、この壁を押し開くべく武美校での小生の招請をお願ひしましたが、この事に就きましては田中理事長も諒解済みですが、ただ事務的なことだけが残ってゐると想像しでゐます。

去る十月末日本橋画廊の兒嶋徹郎さんもこちらに来まして大変心配して下さいましたが、甚だ恐れ入りますが、ひと言学校にpush しで下され度、不尊を顧みずお願ひ申し上げる次第でございます。先生のいつまでも御健勝をお祈り申し上げます。不備草々

十一月十二日 権鎮圭(権藤)上

追信。拙作の母校への寄贈の件はテラコッタで取扱ひに注意を要しますので慎重を期し次の機会に小生が持込んで行きたいと存じます。」


 

この手紙において権は、大学の非常勤講師として採用されるよう、清水教授の力添えを懇願する。しかし、鷹の台キャンパスへの全学統合によって生じた学生自治会と大学側との意見の溝は、10 月に入りますます深まり、翌年には大学休校・封鎖措置が執られるに至る。これにより、権の非常勤講師採用は見送られる。

・12 月、朱雀や双竜などの文様、飾板、仏頭、鬼瓦、土器などのデザインを多く手がけ、制作。

1969 年(47 歳)

・5 月18 ~ 31 日、テラコッタで《小便小僧》と《灯籠》を制作。

・この年、テラコッタの《馬》(No.79)を制作。

この《馬》は、ギリシャのパルテノン神殿東ペディメントの馬頭(セレネの馬)を模した石膏(武蔵美の彫刻アトリエにもあった)をモデルとして制作されたものである。大学時代の記憶と蔵書 『少年美術館 続編Ⅱ ギリシア』(岩波書店、1952 年10 月)の図版を参考にしたのであろう。

・12 月、テラコッタの胸像《昭春》を制作。

11 月、金鉉玉宅でのパーティに参加した権は、そこで金昭春(ソラボル芸術大学東洋画科)と知り合い、彼女にモデルを頼む。12 月初めの初雪の日から、アトリエで胸像《昭春》(テラコッタ)の制作に取りかかる。金昭春は、権伊那(権玉淵の娘)とともに権のもとで彫刻を学びながら、《キリストの十字架(Crucifixion)》(1970 年)などの乾漆制作を手伝う。

1970 年(48 歳)

・この年、乾漆による《キリストの十字架(Crucifixion)》を制作。

なお、この作品は近所の教会の依頼により制作されたものであるが、完成後、奇妙な形に困惑した教会側が受け取らなかったため、権のアトリエの壁に掛けられたままとなっていた。翌年(1971 年)の明東画廊の展覧会に出品する。

・和睦な家族を希望し、梨花女子大学校英文科出身の女性と再婚するが、すぐ自然消滅する。

・5 月、ギャラリー毘含にて開催された「毘含展」(5 月22 ~ 26 日)を訪れ、金毘含の作品を見学。

・権璟淑家族との同居が始まる。

母が亡くなって以来、家事と制作を手伝ってきた朴英姫が家から出て行くことになる。この時、権は英姫に金の指輪(金昭春が誕生日祝いに権に贈ったものである)を餞別として渡す。その後、妹の璟淑家族が入居し、一緒に過ごすようになる。

・晩夏、元寿栄、徐成萬とともに、釜山松亭海水浴場、釜山港、梵魚寺、通度寺、海印寺などを旅行。

・12 月、春川高等普通学校(春川公立中学校)15 回同友会報『濊貊』2 号に、「無題」を掲載。『濊貊』の表紙絵は新羅土器を範とした権のデザインである。

1971 年(49 歳)

・2 月28 日~ 3 月29 日、梁山・通度寺修道庵において木造仏像の制作に従事する。

3 月7 日には《佛像》(No.91)をほぼ完成させる。この《佛像》の構想・制作にあたり権は、国立中央博物館で見た《金銅菩薩半跏思惟像》(三国時代)の頭部と《鉄造如来坐像》(高麗初期)の身部を参考にした。また、フリア美術館蔵《石造菩薩立像》(中国・7 世紀)を参考にした《菩薩立像》を彫る準備をする。制作の期間中、必要な図版や家庭的な指示があると、甥の許明会に手紙を送った。また、李恵祥が用意した木材(赤松)を用いて《牛頭》(No.92)を彫る。

・帰宅後、《佛像》のテラコッタ(No.94)と乾漆を制作。

妹の璟淑に「私の心が平穏な時は仏像が微笑んでいるが、私の心が憂鬱な時は仏像も泣いている」と話すほど権は仏教に心酔する。また、この頃、テラコッタで仏頭の埴輪に似た千仏を制作する。

・4 月、首都女子師範学校(現、世宗大学校)に非常勤講師として勤務。

翌年(1972 年)の前期であるが、その担当科目として、応用美術科「工芸」(木曜日)、絵画科「彫塑一般」(火曜日)が挙げられている。また、採用にあたり権が提出した履歴書には、特技として「素描、立体構成(室内装飾)、彫刻―乾漆(画面)、テラコッタ―、スタイル画」とある。

・6 月15 日、明東画廊社長・金文浩と面会する。

義弟許旭寅の推薦を受けた金鎬然(美術評論家)は、明東画廊の社長金文浩に権を紹介する。金文浩は、権に対して6ヶ月間の制作支援金(毎月3万ウォン)の提供、個展の開催(12 月)について契約を交わす。テラコッタの他、乾漆を出品するため、既存の石膏型を利用して乾漆作品を制作する。権は、自らの作品に古宅の古瓦のような色と質を求めていた。元寿栄、金昭春が助手として手伝う。

・6 月20 日、『朝鮮日報』に掲載されたインタビュー記事「乾漆展準備中の彫刻家権鎮圭氏」において、「韓国でリアリズムを定立させたい」と表明。

権は、「モデルの内的世界が投影されるには人間的に知らない外部モデルは使えないし、モデル+作家=作品という等式が成立する」とモデルとの関係を主張し、帰国動機として「武蔵野の師匠であり、ロダン正統を彼の弟子ブールデルから引き継いだ清水多嘉示先生の下で8年間修学したが、生まれ変われなければとの内的要請により帰国しました。結局、清水先生の影響を克服し、自分なりに成功を収めたと自負しています」と土着化への成功、仏教的世界への苦悩ある沈潜のようなことを認める。また、「芸術家は理解してくれるところに行くべきだと思います。可能であれば、祖国で活動したい。祖国画壇の没理解により創作活動が壁にぶつかったことは一二回のことではありません」と冷遇された気持ちを明かすとともに、テラコッタ制作について「石も朽ち、ブロンズも錆びるが、古代の副葬品であったテラコッタだけは朽ちずに残っています。世界最古のテラコッタは1万年前のものがあります。作家として、おもしろいといえば、火遊びによる偶然性を作品に期待できることと、ブロンズのように決定的な瞬間に他の人(仕上げる技術者)に渡るようなことがないことです」と述べている。

さらに、韓国の彫刻界と彫刻に対する平素の信念については、「韓国でリアリズムを定立させたい。万物には構造があります。韓国彫刻にはその構造に対する根本探求が欠如しています。我が国の彫刻は、新羅時代が偉大であり、高麗時代に停止し、朝鮮時代にはバロック(装飾化)化しました。今の彫刻は外国作品の模倣のみであり、写実を完全に忘覚しています。学生たちが可哀想です」と表明する。

・12 月10 ~ 16 日、明東画廊(ソウル特別市中区忠武路1 街24-3)にて開館1周年記念招待展「権鎮圭彫刻作品展」を開催。

権は、この展覧会にテラコッタ24 点、乾漆像11 点、石彫3 点を出品する。南寛、金瑞鳳、金毘含、金亨球、金昌億、朴得錞、金宗学、朴得錞、朴古石、朴栖甫、劉永國、尹明老、千鏡子などの画家、姜泰成、金泳仲、金世中、金貞淑などの彫刻家、劉康烈、金栄泰などの工芸家、建築家の金寿根のほか、高麗大学校博物館学芸員の李圭皓、美術評論家の劉俊相など、当時の美術界を担う蒼々たる面々が来展したにもかかわらず、社会一般の評価は極めて冷淡なものであった。そしてなによりも、自身の作品の完成度に対する権自身の評価が最も厳しかった。西洋近代彫刻の技法に、東洋の精神世界を融合させた「韓国でリアリズムを定立させたい」と意気込んで制作したにもかかわらず、自他共に納得できないものばかりを生み出してしまった。自身の制作活動を石彫からはじめ、テラコッタに出会い、様々な技法と様式を試み、最後に選んだのがテラコッタの石膏型を壊しながら作る乾漆であったにもかかわらず、その乾漆の作品でさえも到底満足できるものではなかった。このような、権自身が目指す作品と今、自身が生み出し、目の前に存在する作品との間の大きな隔たりに愕然とし、自己弁護の葛藤に陥る。そしてそれが、権の制作意欲を失わせることになる。後に権のアトリエを訪れた朴恵一、安東林が途中で放棄されたままの作品をいくつか目にする。社会的に認められないことや孤独感より、「自身の作品に対する不満から生じる制作意欲の消滅」、これが結果的に権自身をも破滅させる道を開いてしまったのであろう。

なお、この時初めて権の作品を目にした李圭皓(高麗大学校博物館学芸員)は、テラコッタの妙味を感じたという。そこで彼は、1973 年、高麗大学校博物館に展示する現代作家の作品として、権の作品を選ぶことになる。このことが権にとってささやかな自己欺瞞であり、自己保護の支えでもあったかも知れない。

国民大学校畜産科2年生の金東羽は、偶然訪れたこの展覧会において権鎮圭作品に魅了され、彫刻に興味を持ち、権のアトリエに通うようになる。会話はほとんどなかったが、権は、気分が良い時には、日本留学時のことを話したようである。鏡二つを見ながら自刻像を作らせ、指導する際は無言でヘラを奪って手を入れる。翌年春、金東羽は国民大学校畜産科を退学し、美大への再入学を目指すが、権に「韓国の大学で学ぶものは何もない。是非進学したければ武蔵美に推薦状を書いてあげる」といわれ、進学を放棄する。また「芸術は技でも、手から出るものでもなく、精神から現れるものである」、「女を避けなさい。そうすれば彫刻が良くなるし、長く作られる。自分は失敗した」、「自分は作品を管理するように、自分の人生も管理する(作品の焼きが良くなければ壊すように)」、「私が死ぬと喜ぶ人が多いだろう、作品の値段も上がるだろうし」などの言葉をよく口にしたという。

・この頃、作品制作よりは読書と音楽鑑賞に没頭する。

本は、大学で芸術概論を学んだ片山敏彦が訳したロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫、1938 年)と、『般若心経』とを繰り返して読む。音楽は、ベートーヴェンなどのクラシック音楽のほか、バッハ以前の宗教音楽、劉俊相から借りた尹伊桑の音楽もよく聴いた。

また、この頃、アトリエの壁に「凡人には唾を、馬鹿には尊敬を、天才には感謝」と書く。自己批判的でもあり、美術界全体を軽蔑する内容とも解釈できる。そして、妹璟淑に向かい、「子供たちを良く育てるのは優れた作品を作るのと同じである。しかし、人間の子供はいつか死ぬが、私が作った子供たち(作品)は永遠に死なない」という言葉を幾度か発している。

1972 年(50 歳)

・3 月3 日、『朝鮮日報』のシリーズ記事「芸術的散歩」画家の随想⑧に、「炉室の天使を作業しながら歌う春、春」を発表。

・3 月16 日、首都女子師範学校の応用美術科の科代表の金廷帝(3年生)、権の「工芸」(木曜日)の授業を受講。

権は授業中に「作品に対する強い表現、自由な表現、東洋的な表現」を強調し、それらが作品に反映されることを求める。

・3 月、李仲燮(1916 ~ 1956)の15 周忌遺作展「李仲燮展」(現代画廊、3 月20 ~ 26 日)を見学。

この展覧会において権は、李仲燮の《黄牛》(1953 年、紙本油彩)と《白牛》(1954 年頃、紙本油彩)を目にすると、持っていた『黄順元全集』第2巻(創又社、1964 年11 月)の内紙にスケッチし、その後、《黄牛》を範とする《雄牛》(テラコッタ)を制作する。また、李仲燮、朴寿根の絵を褒めながら、馬や牛、蟹などを水墨で描く(No.D31 ~ D36)。

また、首都女子師範学校の授業において、権は李快大、李仲燮の作品を評価し、西洋美術をそのまま真似た作家たちを強く批判する。西洋の近代美術を韓国化・土着化することを重視していたことがわかる。さらに、大韓民国美術大展(国展)などに出品しない理由として、自分の作品を審査できる人がいないからだという。この頃から、既存の評価基準を認めず、外国美術のコピーを厳しく非難する発言が増えていくと同時に、自分の制作に対する疑問や、自分の作品を卑下する発言も多くなる。

· 5 月18 日、禁煙を試みる。

また、高血圧を気にするようになり、「北方(満州?)の人たちは生のタマネギを良く食べるから高血圧が少ないのかな」といいながら、玉葱を生でよく食べた。栄養があるといい犬肉も好んだ。

・6 月15 ~ 17 日、首都女子師範学校応用美術科のスケッチ旅行に参加。栄州の浮石寺、喜方寺を訪れる。

・6 月23 日、カナダ展示のカタログ制作に取りかかる。

権はカナダで開催する予定の展覧会を期待していたが、7 月に中止が決まり、失望する。

・7 月、《藤花をもつ女と車輪》のドローイング、セメント浮彫を制作。

・7 月28 日頃、金廷帝宛てに書簡を送る。

その手紙には、「全てを昇華させるあの炎を見ながら、新羅時代の陶工たちは月光の下で制作しただろう、同じ月なので、新羅の陶工たちと対話をする。ああ、この幸福」、「廷帝より二個附託された。炉室の神秘、あ~神よ。成功させよう。しかし、結果は思うままではない。まず、一個だけ家に安置した。色はまま良いが、形体は気に入らない。この程度で我慢しなければ。アトリエには二人の学生が地上天国を造成しているが、一人が東海に戻って、寿栄のみが残っている。孤独であろう」と書かれていた。

・この頃、東国大学校の文明大教授、権のアトリエを訪ね、《泗溟大師銅像》の制作を依頼。

1966年に設立された愛国先烈彫像建立委員会と、ソウル新聞社によって建立された15 躯の銅像(1968 ~ 1972 年)のうち、1968 年5 月に建立されたソウル・奨忠壇公園の《泗溟大師銅像》が、泗溟大師のイメージとは異なることや芸術性の欠如などから問題となり、1972 年春に東国大学校の文明大教授を中心に新たな銅像を建立しようとする委員会が学内に結成された。文教授は、新たな銅像の制作を権に依頼することとし、権のアトリエを訪ねる。権鎮圭は文教授の申し出を承諾したが、学内の意見がまとまらず、結局は立ち消えになってしまう。弘益大学校で権に師事した金光鎮によると、権は、安重根ないし金九の銅像を制作したがっていたようである。

・8 月19 日、再び梁山・通度寺を訪問。

・8 月20 日、自ら窯を壊し、石膏作品《祖国》を外に出して雨にさらす。

権は藤の枝を切り、自らアトリエの窯を破壊する。また、石膏による《祖国》を外に放置し、雨に溶かして壊す。

・9 月1日、自殺をほのめかす。

1 日、アトリエにおいて権は、金廷帝など学生たちに向かい、「親が子のために死ねるように、私は自分の作品のために死ぬ」という発言を初めて口に出す。また、6 日にも自殺をほのめかす発言を繰り返す。

・11 月、金廷帝宛ての書簡において、「遺言」を記す。

権は、金廷帝に「遺言」と書いた手紙を送る。

 

「廷帝へ、

最後の天使であった任 廷帝 

人生は無 

シューベルトの「未完成」を聴きながら作別します。 

一九七二年十一月 日 正午」

 

・12 月、高血圧により疾病が重くなり、診断を受ける。

金文浩社長が、権を韓医院崔衝重に診断させる。高血圧、神経性手顫症、腎臓炎であった。また、高血圧の影響で腎臓の動脈硬化が生じ、腎臓の機能が衰えてくる腎臓動脈硬化症に発展したとする証言もある。

1973 年(51 歳)

・1 月~ 2 月、高麗大学校博物館の現代美術室に収蔵される作品に関し、館長と学芸員の李圭皓、権のアトリエを訪問。

1 月19 日、学芸員の李圭皓がアトリエを訪問し、高麗大学校博物館への作品収蔵の意志を伝える。これに権は非常に喜ぶ。22 日、館長とともに再び訪れた李圭皓は、《馬頭》と《自刻像》(1969 ~ 70 年、No.87)を選定し、博物館に運ぶ。29 日、謝礼(15 万ウォン)を払うとともに、作品をもう一点寄贈するように依頼するが、権はこれを断っている。

2 月3 日、数回にわたって《比丘尼》(1970 年、No.88)を追加要請する。また、その場で核物理学者の朴恵一(ソウル大学校工科大学教授)を紹介する。翌日、朴恵一がアトリエを再訪問すると、ビニールで覆われた制作中の裸婦像の表面が乾いており、しばらく制作をしていなかったことを感じる。朴が小品二点の作品代として7 万ウォンを渡すと、権は「作家は作品を売って生活してはいけないのに」と言葉を濁らせながら、「作品が無くなるたびに悲しい」と言う。朴が「早く回復して作品を作らないと」と声をかけると、「(命が)あまり残っていません」と答える。

2 月6 日、再び李圭皓がアトリエを訪問して《比丘尼》を搬出すると共に、英文学者の安東林(高麗大学校講師)を紹介する。9 日、李圭皓は権に総合診断を受けるよう勧める。また、金文浩・権玉淵と相談するが、権玉淵は「身病より心病を先に治すべきであろう」と言う。

・3 月24 日、安東林、李圭皓、朴恵一、高承観とともに夕食。

安東林宅で行われたこの夕食会において、弘益大学工芸科卒業の高承観が始めた漢字占いに皆が興じるなか、権鎮圭は「死」と書く。

・3 月28 日、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を観覧。

ブラームスとベートーヴェンの音楽が上演される二日目を選んで、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を観覧する。朴恵一、安東林とベートーヴェンの音楽や伝記、また東京で聴いたオーケストラとの比較などについて語り合う。

・4 月初め、金毘含のアトリエを訪問。

アトリエを訪れた権は、いつものように富民屋の鮮血湯(牛血の凝固したものを具にしたスープ)を食べ、「毘含に会ったらもう少し生きたくなった」と言い残して帰る。

・この頃から、永登浦の姉や禾谷洞の妹の家で療養。大学の非常勤講師を辞任。

・4 月23 日、朴恵一宛てに葉書を送る。

その文中で権は、次のように過去形を用いて記している。

 

感謝します。

我が人生において最後に出会った力になってくれた方でした。

遂信 高大博物館美術館開館の件、感謝します。

 

・5 月3 日、高麗大学校博物館、現代美術室開幕式に参席。

9 時にアトリエに来た朴惠一とともに昼食を済ませた後、高麗大学校博物館に向かい、午後2 時頃、現代美術室開幕式に参席する。午後5時過ぎに高大に来た金廷帝を連れて、李圭皓、安東林とともに、朴恵一宅に行く。夕食後、10 時半まで「タンホイザー」などの音楽を聴いて過ごす。

・5 月4 日、権鎮圭、自ら命を絶つ。

朝8 時20 分頃、再び高麗大学校博物館を訪ね、展示中の自分の作品を見る。図録を数冊受け取り、11 時半に帰宅する。午後1 時頃、すでに前日に書いておいた遺書二通(朴恵一と金廷帝宛)を郵送するように手伝いの金英玉に頼み、アトリエに籠もる。午後3 時、遺族宛の遺書と、葬式費用として若干の金を残して自殺する。5 時頃、権の好物であったカマボコを用意し、呼びに行った英玉が発見、帰宅した甥の許慶会に知らせる。

遺族宛の遺書は、大きい厚紙に2㎝ほどの赤字で、

 

璟淑へ、

今後のことは頼む。

少ないがこれで後処理をしてください。

火葬して全ての痕跡を消してください

 

とあった。また、朴恵一宛の遺書には、

 

朴恵一先生、

感謝します。

最後にあった友人の中で最も希望的な方でした。

人生は 空,

破滅.

午後6時挙事」

 

と記されていた。金廷帝宛遺書には、

 

廷帝へ、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷帝、

廷、

廷、

廷。

人生は空、破滅です。

挙事午後6時

 

 

とあった。

いずれの封筒も「五月三日」と書いたものを「五月四日」に訂正しており、本来の計画としては、5 月3 日午後6 時に去る予定であったことが推測される。

・5 月6 日、葬儀、埋葬。

家族と彼を大切にしていた友人たち、および何人かの弟子たちに見守られ、質素な葬式が行われる。午前11 時に発靷し、遺言に従って火葬をし、両親と兄が埋葬されている忘憂里共同墓地(No.201743)に安葬する。

・6 月21 日、仏光洞歓喜寺において四十九日斉を行う。


● 1974 年5月15 ~ 19 日、明東画廊(ソウル特別視安国洞148)にて「権鎮圭第一周忌追慕展」が開かれる。遺作展推進委員は権玉淵、金文浩、金貞淑、劉俊相、李慶成、李圭皓、崔満麟、崔淳雨であった。その展覧会を見た義弟許旭寅(許彬)は、権鎮圭を偲びながら詩を作る。

 

展覧会


古風が/雨にゆすがれ/今日の/古宮になった。
丹青は/描きなおされ/みずぼらしい/現代色は/古色を呑みこんだ。
東海を/運んできた/芝生の上で/洋夷の/足裏が/俺を踏みつける。


あなたの/分身は/私を呑みこんだ。
最初に/そして最後に/動かした/あなたの舌は/私の耳を/圧倒した。
砕かれた/あなたの/もう一つのあなたは/あなたが/死んで/私の目を/うるおわせた。
赤と黒の/あなた/自刻像は/私/あなたの/脈を取ったように
私の全身を/優しく/撫で回す/のだ。


帰る/私の/足は/足跡を/残せなかったのだ。


 

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